デザイナーズノートのようなもの・その3

(この文章はTrick-taking games Advent Calendar 2020の17日目の記事として書かれたものです)

 今年はベートーヴェン生誕250年だそうで、しかも昨日は誕生日だったのですね。ベートーヴェンですか……。私も10代の頃は好きだったんですが、歳を取るにつれてあまり聴かなくなってきました。好きな曲をいくつか挙げろと言われたら、後期の弦楽四重奏曲(第12〜16番)があればあとは要らない、と答えるんじゃないかと思います。それでもベートーヴェンはまだ聴く方で、私はブラームスショパンシューマンマーラードビュッシーあたりはほとんど聴きません。まあいいじゃないですか。音楽なんて好きなもんを聴きゃいいのです。
 これはゲームに関しても同様でして。白状しますが私はゲームに関して好き嫌いが多い方ではないかと内心思っております。仕事じゃないんだから心の底から面白いと感じるゲームだけをやりたいという気持ちが非常に強いのでして、好き嫌いが多いのはそのせいかもしれません。伝統ゲームなら八八(花札の)、連珠、リバーシあたりはあまり面白いと思いませんし、トリテに限定してもユーカー、ナップ、ファイブハンドレッド、トレセッテ、ブリスコラ、ブロット、ブリッジなんてのはそれほど好きではありません。ドイツのボードゲームだとカルカソンヌ、操り人形、トランスアメリカ、宝石の煌き、アズールあたりはあまり面白いと思いませんし、それにライナー・クニツィアの作品は基本的に好きではありません。
 けれども自分の好きでないゲームに関してそれがいかにつまらないか得意気にこき下ろす趣味も持ち合わせていないので、面白いと思わないゲームについてはなるべく話さないことにしています。ゲームなんてのは個人の好み、つまり好き嫌いの問題なのであって「世の中セロリが嫌いな人や納豆が苦手な人もいるよね」という程度のものだと私は捉えております。自分の好きなゲームについて他者が「面白くない」と言うのを聞くとムキになって反論したがる人もいるようですが、そしてその気持ちも分かるのですが、ゲームなんて自分と合うか合わないかというだけの話なので議論してもしょうがないと考えています。「正しい評論が文化を発展させるのだ」という意見はもっともですが、「正しい評論」というのは自分の考えをきちんと言語化して分析できる人のすることで、おいそれと手が出せるものではありません(そしてまた、正しい評論というのは書き手のみならず読み手にもそれなりのレベルが求められるものです)。それでも好きなゲームについてであればあれやこれや話すのは楽しいものですから大いにすればいいと思います。けれども嫌いなゲームとなると……。自分のお気に入りのゲームについて他者が悪く言うのを聞くと不快に感じるという人の気持ちも分かりますし、それに嫌いなゲームについて考えるのは精神衛生上よろしくないものですので、私の場合話題にすることはおろか考えることさえなるべくしないようにしています。というわけで万が一(運悪く)私と会って話をすることになった方がいらっしゃいましたら、クニツィアの話題は避けていただけるとありがたいです。同時にまた、世の中納豆が嫌いな人がいるようにクニツィアがノットフォーミーな人もいるということをご理解いただけると嬉しいです。
 そういうわけなので、あのゲームが嫌いだの面白くないだのといった話はなるべくしないようにしているのですが、単に「嫌いだ」「面白くない」と言うのではなく、正当な理由に基づいて批判するのであればある程度は許されるだろうと思います。特にゲームをデザインする場合、嫌いなゲームの何が嫌いなのかを理解することはそのゲームの問題点を理解することにつながりますし、問題点が改善できればそのアイディアを使って新たなゲームを創作することもあり得ますから、嫌いなゲームを批判的に分析するのはゲームデザインにとって重要な作業だと私は考えています。

 そこでちょっと批判的な話をさせていただきますが、実は私ハーツ(ブラックレディ)があまり好きでなくてですね。昔さんざんやったのでいいかげん飽きたということもあるんですけれども、それとは別にハーツには根本的な欠陥があると思うのですよ。ハーツはマストフォローで行われます。つまり誰かが台札としてハートを出したら、ハートを持っていたら必ず出さなきゃいけないわけです。4人でプレイしていて全員ハートをフォローしたとしたら誰かは必ずハートを4枚取ることになります。でゲームの目的はと言うと「ハート1枚につきマイナス1点」って、そりゃないよなあと思うのです。
 このルールだと、みんなが序盤にハートの低いカードをリードし続けて、そこで事実上ゲーム終了、ということがふつうに起きます。これでは面白くないので現在行われている一般的なブラックレディでは「誰かがハートをディスカードするまでハートをリードしてはいけない」という少々不自然で強引なルールが追加されるわけです。しかしこれだけではハート以外のカードの存在意義が薄いので「スペードQはマイナス13点」「ダイヤJはプラス10点」「オープニングリードは必ずクラブの2」などというルールまで追加されることが多いのはご存知のとおり。その上「不要なカード3枚を左隣へと回す」だの「ハート13枚とスペードQを全部取ったらシュートザムーンで他のプレーヤーがマイナス点」「いやいやシュートザムーンはダイヤJも取らないと」などなど、なんですかこのローカルルールの山は? 要するに根本となるルールが破綻していて、それを取り繕うために些末なルールを追加してはみたものの根本的な解決とはならないのでさらにルールを追加するという悪循環に陥っているのではないでしょうか。しかもハート1枚につきマイナス1点なのに対してスペードQは1枚でマイナス13点なんてバランスが悪すぎます。手札を3枚隣と交換しようと何をしようと4人のうちの誰かがスペードQを取らされることに変わりはないのでして、何の改善にもなっていません。こうしたルールのせいで「緻密にプレイするトリテ」と「ワイワイ盛り上がる運ゲー」のどちらにもなっていない、中途半端で焦点のぼやけたゲームになってしまっていると私は考えます。
(ずいぶんと否定的なことを書いてしまいましたが、トリックテイキングの初心者が最初に覚えるのはハーツがいいのではないかと考えています。またトリテの創作をしてみたいという人は飽きて嫌になるまで徹底的にハーツを経験しておかねばならないというのが私の意見です)
 私の理解ではハーツの抱えている根本的な問題は上に述べたとおり「マストフォローであるにも関わらず『特定のスートのカードを取っちゃダメ』というルールとなっていること」だと思います。なのでこれを根本的に解決するためには「特定のスートのカードを取ってはいけない」というルールを廃止して、代わりに例えば「1トリック取る毎にマイナス点」にするとか、そういった設定にしなければならないことになります。

 「なるべくトリック(もしくはカード)を取らないようにするトリテ」のことをミゼールあるいはトリックアヴォイダンスなどと呼ぶことがありますが、実を言うと私はこの手のゲームがあまり好きではありません。そしてまた(ぶっちゃけた話)面白いトリテを作りたければビッドを採用するか、パートナー戦にするか、ミゼールにするかしたらたいてい面白くなるのでして、こういう安易な手段はなるべく選ばないようにしています。それでも頭にふと浮かんだアイディアを生かすためには必然的にミゼールを選択しなければならない、なんてこともあります。
 例えば今回の応募作の中に「ピケ・ニ」というのがありますが、「トリックテイキングとババ抜きをくっつけたらどうなるか」という(我ながらふざけた)アイディアから生まれたゲームです。つまりトリックを取った人が次のトリックのリードする代わりに他のプレーヤーの手札から1枚引き抜いて、それを台札にするわけです。他のプレーヤーにしてみれば自分の手札から、出したくもないカードを1枚勝手に出されてしまうのですから圧倒的に不利です。となるとトリックを取って他プレーヤーから1枚引く人もそれなりの不利益を被って頂かねばなりません。言い換えると「トリックを取ると不利になるけれども、その埋め合わせとして他プレーヤーから1枚引く権利が与えられる」というシステムであるべきで、それはつまりミゼールということになります。ミゼールのゲームは基本的にリーダー(台札を出す人)になるのを避けるのが得策になるのですが、トリックを取るとカードを取らされる上に次のトリックのリードをしなければならなくなるので踏んだり蹴ったりです。それを「トリックを取るとカードを取らされるが、次のトリックのリードはしなくてよい」というルールに変更すると不公平感が多少軽減されます。「トリックテイキングとババ抜きをくっつける」なんてムチャクチャな発想から出発したわりには、いつの間にかミゼールゲームの抱える根本的な問題を解決しているではありませんか!……って、いやそれはさすがに言い過ぎですな。(「ピケ・ニ」はババ抜きの要素が入っているので基本的に運ゲーもしくはパーティゲームです。まともなトリテじゃありません。また本当のことを言うとこの話は順序が逆で、私はずいぶんと昔からミゼールに対する問題意識を持っていました。その後「ババ抜きとくっつける」というアイディアが浮かんだときに「あ、これってミゼールの問題が少し解消されるかも」と思ったわけです)
 さてミゼールではカードにどのようなマイナス点を与えるべきか。(1) マイナスのスートではなくマイナスのランクを作る、(2) ほぼ真ん中、もしくは真ん中よりやや上の複数のランクを選ぶ、というのが私の考えです。「ピケ・ニ」の場合8・9・10のカードをそれぞれマイナス1点としました。加えて1トリックにつきマイナス1点としました。ミゼールのマイナス点はこのようなものがいいのだろうというのが私の今のところの結論です。
 とはいえ、あんまり整いすぎているとかえって面白味がないかもしれませんけれども。「座敷わらし」(これまた今回応募したものの1つですが)の《貧乏神ディール》であえてハーツの得点体系を採用したのは「貧乏神のマイナス点があるならそれ以外の部分が整いすぎていてはまずい」という判断によるものです。整いすぎていると面白くないのであれば崩すことになるわけですが、だからと言ってハーツの得点体系をそのまま採用するってのはどうなの?とは自分でも思います。もう少し別のやり方があるのではないかという気もしていて、悩ましいところです。しかも《よくできていること》は必ずしも面白さと直結していないのでして、難しいですね。

 シューマンは自身も含めた作曲家について「ベートーヴェンの遺産で暮らしているようなもの」と言ったとか。またベートーヴェンと同時代を生きたシューベルトは「ベートーヴェンの後で我々に何ができるのだろう」と時折漏らしたそうです。私の好き嫌いに関係なくベートーヴェンが偉大な作曲家であることは間違いありません(いや私も決して嫌いなわけではありませんよ)。そして創作トリックテイキングの分野で偉大な人物と言うとまずパーレットを挙げなければならないでしょう。遙か彼方を走るパーレットの背中を追って、一歩でも近付こうと私もそれなりに頑張っているつもりではありますが、一向に近付く気配はありません。私の作ったものから伝統的なトランプゲームとパーレットから学んだものを取り除いたら、創意なんて何も残らないでしょうね、残念ながら。ここ数年このアドベントカレンダーに何だか偉そうなことを書いていますが、実のところ私も、パーレットの後で何ができるのだろうといつも途方に暮れています。

黒宮公彦