現代トリックテイキングへの道(後編)

(この文章はTrick-taking games Advent Calendar 2018の23日目の記事として書かれたものです)

 「現代トリックテイキングへの道」の後編です、が……。前編を読み返してみたら誤解を招きそうな表現があったので改めて説明させていただきます。「実はホイストはオンブルの後に生まれたゲームではなく、オンブルよりも前からあってオンブルの大流行をものともせずに遊び継がれたゲームが復活しただけ」と前編で書いたのですが、この「オンブルよりも前からあって」はホイストのことではなく「遊び継がれたゲーム」に掛かっているとお考え下さい。大ざっぱな話をしますと「ビッドありオンブル」が誕生する以前からイギリスには「トランプ」「ラフ・アンド・オナーズ」などと呼ばれるトリテがあり、これらが紆余曲折を経てホイストへと変化しているので、ホイスト自体がオンブル以前からあったわけではありません。オンブル以前のビッドのないトリテがイギリスに伝わり、ビッドの要素が加えられないまま遊び継がれてホイストになった、と言いたかったのです。紛らわしい書き方をして済みません。
 さて、では前編に引き続き「現代トリテ以前のトリテには『どんな手札でもやりようがあるトリテ』にするためのどのような工夫が見られ、それがどのように現代トリテへと引き継がれたか」を見ていきたいと思います。

2.各自が取れるトリック数を予想する
 ビッドとは通常いかに多くのトリック(もしくは点数)が取れるかを競るものです。あるいはより達成困難な条件を競るゲームもあります。そして最後まで残った1人が競り落としたと見なされビッダーとなります。けれども各自がそれぞれに、つまり他のプレーヤーよりも多く取れるかどうかを一切気にせずに自分がどれだけ取れそうかを予想するだけであればどんな手札であっても可能です。つまり従来のオンブル・スキームのトリテにおいては「ビッド=競り(オークション)」であったのが、「競りでないビッドもビッドとして認める」というようにビッドの概念が変容したわけですね。
 このようなゲームでは「トリックをたくさん取ること」よりも「予想どおりのトリック数を取ること」の方が重視されなければ意味がありませんので、予想どおりのトリック数を取れた人は多く得点できるシステムが必ず付随します。
 こうしたゲームの歴史について知りたいとき、まずはパーレットのA History of Card Gamesを参照するのが便利です。パーレットによると「ボストン」のヴァリアントで1トリックだけ取ることを目指す「ピッコロ」というビッドを認めるものがあったそうです。また「タロック」(おそらく「ジャーマン・タロック」のことだと思われます)にも「きっかり1(2、3)トリックだけ取る」というビッドを認めるヴァリアントがあったとのことです。「予想どおりのトリック数を取ること」を目的としたゲームの元をたどると始まりはこのあたりにあるとパーレットは考えています。もっともこれらのゲームではビッダーになれるのは1人だけですので、まだオンブル・スキームに留まっています。これらのゲームよりも、前編で言及した「ルー」や「ビースト」のような「最低1トリック取れるか、それとも降りるべきか」を全員が判断しなければならないゲームの方がむしろ「取れるトリック数を予想するトリテ」に近いと言えるかもしれません。
 ですからオンブル・スキームを脱した「予想どおりのトリック数を取るトリテ」となるためには以下の2つの条件を満たしている必要があると私は考えます。
(1) 全員がビッドする。ビッダーを1人に決めるために競ることはなく、逆にパスもできない。
(2)「トリックをたくさん取ること」よりも「予想どおりのトリック数を取ること」の方が重視され、後者に対して高い得点が与えられる。
 この2つの条件は私でなくとも多くの人が考えることでしょう。パーレットも、これら2つの条件を明言しているわけではないものの、おそらく同じ考えであり、本当の意味での「予想どおりのトリック数を取るトリテ」は「オーヘル!」に始まるのだろうとしています。オーヘル!の発祥についてパーレットは不明としつつ、1930年代の初め頃アメリカで生まれたという説を紹介しています。加えてポイントテイキング(カードに固有の点数があり、取ったカードの点数を競うトリテの一種)の分野における「予想どおりの点数を取るトリテ」としてスイスのヤスの一種「ディフェレンツラー」を挙げています。
 パーレットが「スペード」に言及していないのは意外ですが、もちろん仲間に入れるべきでしょう。スペードもどうやら1930年代にアメリカで生まれたゲームのようなので、オーヘル!の影響を受けて誕生したゲームなのかもしれません。もともとは個人戦のゲームだったはずですが、現在では2人対2人のパートナー戦でプレイされることが多いように思います。
 このような伝統の延長線上に、パーレットが1968年に考案した「ナインティナイン」や、ケン・フィッシャーが1984年に考案し製品化された「ウィザード」といった創作ゲームがあるわけです。そしてこのジャンルではもう1つ、シュテファン・ドラの「7つの印」(「ウィザードエクストリーム」等様々な別名がありますが)を言及しておかなければならないでしょう。

3.真ん中を避ける/真ん中を目指す
 たくさんトリックを取った人の勝ち、あるいは逆になるべくトリックを取らなかった人の勝ちというゲームでは手札に向き不向きができます。言い換えると手札による有利不利があるということです。そこで「たくさんトリックを取った人も勝ち、トリックを取らなかった人も勝ち、真ん中の人が負け」ということにすればどんな手札でもやりようがあるゲームとなるんじゃないか、という考え方です。
 このようなゲームとしてスイスのヤスの一種「モロトフ」「ミットレール」「プラスマイナス」「プレジデンテン」が挙げられ(ちなみにこれに限らずスイスのヤスはトリテのアイディアの宝庫と言えます)、またスカートの遠い親戚で「ミトラーラムシュ」というのもあります。これらのゲームの発祥について私はよく知りませんが、このタイプのトリテの元祖はモロトフではないかと考えています。「モロトフ」という名前はロシア(ソビエト時代)の政治家ヴャチェスラフ・モロトフに由来するのだそうで、20世紀後半に生まれたゲームではないかと思います。どうやらモロトフはもともと、なるべくトリックを取らないようにするゲームだったようです。またミットレールはモロトフから派生したとpagat.comのJohn McLeod氏は述べています。私の予想ではプラスマイナスはモロトフやミットレールとほぼ同時に生まれ、プレジデンテンはもっと新しいゲームではないかと思います。
 ではこれらのゲーム以前に「真ん中を避けるトリテ」はまったくなかったのかと言うと、似たような発想ならあったと考えていいと思います。例えばスカートにラムシュというのがあります。あれは要するに「たくさんトリックを取った人が勝ちとなるトリテ」で全員パスしたならトリックを一番取らなかった人を勝ちとしよう(そしていい手札が配られたのにパスした人を罰しよう)という発想のゲームです。この発想を下敷きとして「たくさんトリックを取った人も勝ち、トリックを取らなかった人も勝ちとなるトリテ」が生まれるのはわりと自然なことのように私には感じられるのですが、いかがでしょうか。上に述べたミトラーラムシュはこのようにして生まれたのではないかと私は想像しています。そしてそう考えるならばこのアイディアはさらに歴史を遡ると見なすことも可能でしょう。前編でも見たように「通常の切り札ゲームに加えてミゼールのビッドが認められるトリテ」は古くからあります。その発想が発展して最終的に「トリックをたくさん取るか、なるべく取らないかのいずれかを各自が選択できるトリテ」が生まれたと言えるかもしれません。

 さて、「真ん中を避けるトリテ」があるのならその逆に「真ん中の人を勝ちとするトリテ」も考えられるところです。強い手札─ということはたくさんトリックを取りそうな手札ということですが─を配られた人が真ん中になろう、つまりあまりトリックを取らないようにしようと努力するならば、あまりトリックが取れそうにない手札を配られた人でも思いがけなくトリックを取ることになったりもするでしょう。ここから分かるように手札による有利不利がプレイによって平均化されると期待され、どんな手札でもやりようがあるゲームとなると考えられます。
 こうした「真ん中を目指すトリテ」の発祥については、これまた私にはよく分かりませんが、ミットレールヤス等にヒントを得てパーレットが発明したのではないかと想像しています。もっともこれまた、似たような発想ならこうしたゲーム以前からあったと考えていいと思います。「ナポレオン」のいわゆる「シベリアン・ルール」(得点のあるカードをナポレオン軍がすべて取ると負けとなるルール)やミットレールヤスの「100点以上取った人は全トリック取っていない限り負け」というルールは真ん中を目指す発想に通じるものがあります。逆に取らないことを目指すゲームについても、ミットレールヤスでは「1トリックも取っていない人は負け」ですし、アメリカの5人式シープスヘッドにも全員がパスをしたときに行われる「リースター (leaster)」(スカートのラムシュと似ているが、最低1トリック取っていないと負けになる)というルールがあります。こうしたアイディアが積み重なって「真ん中を目指すトリテ」が生まれてきたのではないでしょうか。
 パーレットの「真ん中を目指すトリテ」というと「ミニミゼール」「ハムレット」「フーズフー」あたりがその代表でしょうか。とりわけハムレットはディールによって「真ん中を避ける/真ん中を目指す」のいずれもが楽しめる傑作です。パーレットはナインティナインの作者で、ナインティナインは3人が3人とも3トリック取ることを目指していた、なんてことがよく起こるので、もしかするとそういうことも「真ん中を目指すトリテ」の発明につながったのかもしれません。

4.トリックを取るメリットがデメリットと抱き合わせになっている
 トリックを取ることにメリットしかなければ誰もがトリックを取ろうとしますし、デメリットしかなければ誰もがトリックを取るのを避けるでしょう。けれどもメリットとデメリットがワンセットになっていれば誰しもトリックを取るべきかどうか迷いますし、強い手札を配られた人もある程度トリックを取りある程度負けることを考えるでしょう。となるとあまりトリックが取れそうにない手札を配られた人でも思いがけなくトリックを取ることになったりするはずです。このように手札による有利不利がプレイによって平均化されると期待され、どんな手札でもやりようがあるゲームとなると考えられます。言い換えると「このトリック、取るべきか取らざるべきか」というジレンマを与えるトリテとも言えるでしょう。
 このタイプのゲームは様々な可能性が考えられ、さらなる下位分類が必要なほどです。もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、3で述べた「真ん中を目指すトリテ」はこのタイプの一種と考えていいと思います。それ以外のものというと私は伝統ゲームの中ではイタリアの「ペッパ・シヴォローサ」くらいしか思いつきませんので(何かあったような気がしなくもないのですが)、これが「トリックを取ることにメリットとデメリットがあるトリテ」の元祖なのかもしれません。これはハーツの一種で、わりと新しいゲームではないかと想像します。
 現代トリテからはまず、私が昨年の記事でデッキ構築型トリテの元祖として取り上げたアボットの「メタモルフォーシス」を挙げておきましょう。今のディールで得点すると次のディールで不利に、今のディールで失点すると次のディールで有利になるゲームです。つまりジレンマは今のディールと次のディールの間で生じます。
 デッキ構築型トリテでもパーレットの「タントニー」ではディールの内部でもジレンマが生じます。ランクの低いカードを出すとトリックが取れる代わり得点も低いというジレンマです。もっともそれだけではなく様々なジレンマが絡み合った不思議なゲームです。
 デッキ構築型でない現代トリテの例としてはギュンター・コルネットの「ボトルインプ」を挙げておきます。ランクの低いカードでもトリックを取ることができるけれども取ったトリックが無駄になる危険性と隣り合わせという、とてもよくできた作品です。

5.トリックを取るメリットを分割して複数のプレーヤーに与える
 本来トリックを取った人は (1) 場に出されたカードをすべて取り、(2) 次のトリックのリードをする権利が与えられるわけですが、これを分割して複数の人に与えることでどんな手札でもやりようがあるゲームにする、という考え方です。言い換えるとトリックを取ることにも取らないことにもメリットがあるトリテということですから、ある意味で4の裏返しと言えるでしょう。
 これを実現した伝統的なトランプゲームは……どうも思いつきません。これに関しては現代トリテの時代に入ってからの発明かもしれません。なのでこの項は簡単に済ませたいと思います。
 現代トリテでこの手法を発明したゲームは何かとなると……これまた私にはよく分かりませんが、最強と最弱のカードを出した人がそれぞれカードを得られるラインハルト・シュタウペの「ダヴィデとゴリアテ」あたりがこのジャンルの嚆矢でしょうか(もっと古い作品があるような気がしますが)。製品化されたゲームにはこの手の工夫がよく見られるように思います。現在新しいトリテを最も生み出しているジャンルと言えるかもしれません。

6.自分で好きなカードを選んで手札とする
 自分で好きなカードを選んで手札とする、つまり各自が手札を構築するのもどんな手札でもやりようがあるゲームにする重要な手段です。もっとも自分で手札を構築するのは「どんな手札が配られてもやりようがある」のとはまた別の話になりますけれども。こうした「デッキ構築型トリテ」については昨年の記事で詳しく述べたのでここでは省略させていただきます。

7.対戦相手が隣のテーブルにいる
 最後にブリッジの一種「デュプリケート・ブリッジ」に触れておこうと思います。デュプリケート・ブリッジではすべてのテーブルに同じ手札が配られます。対戦相手は同じテーブルにいる人ではなく、同じ手札が配られた隣のテーブルのチームです。同じ手札を使って最も得点したチームの勝ち、これならどんな手札が配られてもやりようがありますね。
 ではありますが、しかし……それ以前の問題として、これって「ゲーム」なんですかね?「テイクイットイージー」「8ビットモックアップ」「カルバ」なんてボドゲがあるだろ、あれと同じだよ、と言われればそうかもしれませんが、ああいったゲームは対戦相手と同じテーブルを囲んでワイワイやるという点でデュプリケート・ブリッジとは違います。トリテの分野でデュプリケート・ブリッジの後継のゲームは現れないんじゃないかという気が私はしていて、そうなるとオンブル・スキームの枠組みの中で生まれながら現代トリテに引き継がれなかった珍しい例と言えるかもしれません。(「デュプリケート・ブリッジは現代トリテだ」と主張することも可能かもしれませんが)

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 このようなわけで私は「現代トリックテイキングゲーム」とは「デザイナーが『どんな手札でもやりようがあるトリテ』を作ることを意図して作られたトリテ」のことだと考えます。その上で「どんな手札でもやりようがあるトリテ」を実現する手段のうち発想の原点が現代トリテ以前に遡れるものを中心に見ました。これらのうちとりわけ重要なのは1〜4でしょう。5は現代トリテ以前に遡れず、逆に7は現代トリテに引き継がれていないように思われます。また6は「どんな手札でもやりようがある」のとは少し違ったタイプのゲームと言えます。
 逆に現代トリテ以前に遡れないものは(5を除き)考察の対象から外しました。メイフォロー等についても伝統的なトリテでは「どんな手札でもやりようがある」という発想と結びついていなかったと思われますし、ましてやいわゆる「マストノットフォロー」などは発明されていなかったので対象外としました。
 ですから「どんな手札でもやりようがあるトリテ」を実現するための、現代トリテになってから発明された手段はこれら7つ以外にもあるかもしれません。ただ案外これら以外の手段は発明されていないか、あったとしてもごくわずかという気がします。例えば「とにかくカオスにして誰が勝てるか分からないようにする」というのもここに含めていいのかもしれませんが、それは「どんな手札でもやりようがある」のとはちょっと違うように思います。ましてや単なる「今までにないちょっと目先の変わったトリテ」というだけではどんな手札でもやりようがあるトリテとは言えません。

 さて、逆にこのような進化の陰で消えていったものについても確認しておきましょう。まず競り(オークション)としてのビッドのあるゲーム、言い換えるとビッダーを選ぶゲームが新たに作られることはずいぶんと減ったように思います。どんな手札でもやりようがあるならビッダーは要りませんから。なので「ビッダーは山札と手札の一部を交換できる」というルールを採用する新作トリテも減りました。これはつまりカードを配りきるトリテが増えたということでもあります。

 いずれにせよトリテの進化の歴史を概観することで現代トリテをその延長線上に位置づけることができ、現代のデザイナーが何に悩み何を克服し何を達成しようとしているのかが見えてくる、ということはお分かりいただけたのではないでしょうか。こうした手段を念頭に置きつつ改めてパーレットの作品を初めとする近年のトリテを眺めるといろいろと見えてくるものがあると思います。そしてパーレットの偉大さが再確認できることでしょう。同時にまた、私が第1回TTP賞に応募した作品を見てみると残念ながら私が何一つ新しいことをしていないのがバレてしまいましたね。実は昨年のアドベントカレンダーに寄稿する際にくぼたやさんから私のトリテ創作について何か書くようリクエストを頂いたのですが、ようやく書けました。要するにこうした手段を念頭に置いて作っているわけでして、私のトリテ創作の手の内は皆さんにほぼお見せしたことになると思います。
 「どんな手札でもやりようがあるトリテ」を実現するこれら以外の手段、あるいは4や5の新たなアイディアを見つけ出すことが私の今後のトリテ創作の目標ということになります。が、考えれば考えるほどミットレールヤスの完璧さとパーレットの偉大さが身に染みるばかり、というのが正直なところです。それでもこの度第2回TTP賞の開催が告知されたことですし、もう一度ない智恵を絞ってみようかと思案しております。

黒宮公彦