松井さんの思い出

(この文章はTrick-taking games Advent Calendar 2024の2日目の記事として書かれたものです)

 今年もくぼたやさんにお招きいただきましてこのアドベントカレンダーにいくつか記事を書かせていただくこととなりました。どうぞよろしくお願い致します。
(ついでに言うと私は毎年、このアドベントカレンダーの主催者であるくぼたやさんから依頼を受けまして記事を書いております。記事をいくつ書くか、何日目に発表するかもすべてくぼたやさんからのご指定によります。私の方から書きたいと申し出ているわけではないことをご理解いただけましたらと存じます。またこのブログ(と呼んでいいのか?)の管理もくぼたやさんにすべてお任せしておりまして、私は一切このブログに手を触れていないことを申し添えます)

 さて、今年もまたモーツァルト忌の季節が巡ってまいりました。12月5日はモーツァルト忌であります。これについては過去のアドベントカレンダーで記事にしました。ちなみに今年、2024年はモーツァルトファンにとっては大きな出来事が立て続いてお祭り騒ぎの年だったのですが、マニアックな上にトリテと関係のない話になるのでこのくらいでやめておきます。
 ところで、実は12月5日に亡くなられた方がもう一人いらっしゃいます。こちらは私も生前に何度もお目に掛かっている方なので記事にしづらかったのですが、少々思うところもあり、書くことにします。

 昔は京都にもカルタ屋がたくさんあったそうですが、今はほとんど残っていません。「今は」と言いつつ、私の念頭にあるのは四半世紀も前、世紀の変わり目の2000年頃のことなのですが。特に手摺りカルタの製造・販売店ともなると当時すでに松井天狗堂が残っていただけでした。手摺りカルタの店としては京都と言うよりも全国で唯一の店だったんですがね。その店主、「最後のカルタ職人」と謳われた松井重夫さんも2016年12月5日に他界されました。
 木屋町通りの正面を下がると……と言っても通じないかもしれませんね。京都特有の言い回しなのに加えて「正面」というのが意味不明ですからね。京都に「正面通り」という名前の通りがあるのです。豊臣秀吉が「奈良の大仏よりも大きな大仏を京都に」ということで造らせた、日本史上最大の大仏の正面に通じる通りだったので「正面通り」という名が付きました。なお大仏は残念ながら江戸中期に焼失しました。
 その正面通りは東西に走る通り。木屋町通りは南北の通りで、正面通りと木屋町通りの交差点から木屋町通り沿いに南に行くことを京都では「木屋町通り正面下がる」と表現します。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが木屋町通りは高瀬川に沿って南北に走る通りでして、四条か五条のあたりから高瀬川を右手に見つつぶらぶら歩いて正面通りを過ぎると左手に松井天狗堂の小さな看板が見えてきたものでした。
 初めてお目に掛かった当時、松井重夫さんは60代半ばだったのだと思います。お父様を若くで亡くされたので、手摺りカルタの製造技術を、先代から引き継いだと言うよりは、子供の頃の記憶だけを頼りに一から作り上げたというか復元なさったのだそうです。ずいぶんとご苦労なさった方だったようです。
 カルタはいろんなものをお作りになっていらっしゃいました。花札だけを作っていても食っていけない、様々なカルタを作るとコレクターが珍しがって買ってくれるから、という事情があったようです。けれどもコレクターはカルタを買うと棚にしまい込んでしまう。本当はもっと遊んでほしい、カルタは遊ぶものなのだから。「ほんまは『前の花札はボロボロになってしもたさかい買いにきました』言わはるお客さんにお売りしたいんですけんども」、そう言って笑った松井さんはどこか寂しそうでした。
 その反面、売れる商品を作るための新しい工夫は決してお嫌いではなかったようで、ある時には4人で花札が楽しめるように工夫した「十四月花」(通常の花札に竹と蓮の各4枚を加えた56枚で一組となったもの)をお作りになっていらっしゃいました。4人で花合せをするとどうしても札が割れてしまって3枚役が出来にくい、2枚役やシマを増やした方が面白い、といったことを説明書きにして入れたいのだが、早く書かなければと思いつつ、ついつい先延ばしにしている、と笑っていらっしゃったことを覚えています。「私も欲しいです」と言うと、じゃあ完成したら連絡しますとおっしゃって下さって、その後本当に連絡を頂いて何組か頒けてもらいました。通常の48枚一組の花札用ケースに56枚が収まるよう1枚1枚をほんの少しだけ薄く仕上げており、松井さんの職人芸が光る札です。

 ええと、トリテのアドベントカレンダーでしたね。松井天狗堂は江戸時代のメクリカルタの流れを汲む「伊勢」や「赤八」といった地方札も販売していました。これは4スート12ランクのトランプと言ってもいいものなのでトリテだってプレイできるでしょうが、松井天狗堂のカルタでトリテと言えば何と言ってもウンスンカルタでしょう。並のものでもかなりの値段がしましたが(なにせ手摺りですから)、金箔を使った特上品はちょっと驚くような値が付けられていました。「松井さんを応援するんだ!」という気持ちで思い切って買いましたけど(笑)。あ、いやいや、ネットで検索すると画像が見つかるような、金箔の上に絵が描かれている、ああいうウンスンカルタじゃないんです。松井天狗堂のは、カルタの土台(?)となる厚紙(芯紙って言うんですかね?)に金箔を貼り、その上から手摺りの薄紙を載せたもので、見た目は金ピカじゃありません。金箔は表面の薄紙を通してうっすら透けて見えているだけで、「少し黄色いな」と感じる程度です。言われないと金箔が使われているとは気づかないようなカルタです。

 松井天狗堂が販売していた珍しいカルタというと、これはトリテではありませんが、「道才かるた」に尽きるように思います。カードを使ったビンゴのようなゲームのために使用するカルタです。
 松井天狗堂製の道才かるたをお持ちの方が読者の中にもいらっしゃるかもしれません。実は今回の記事はこれが言いたくて書いたというのが最大の理由なのですが、松井さんの道才かるたには奇妙な札が紛れ込んでいるのでご注意下さい。一から六までの数値を示す札が入っているのですが、これは実は手本引きの札であって、本来は道才かるたに入れるべきものではありません。実際松井さんご自身が「これは手本引きの札やし、ほんまは道才に入れるもんやあらしまへんけど、これがあると便利でっさかい、お入れしてるんですぅ」とおっしゃっていました。松井さんが亡くなられた今、こうした貴重な証言は次世代に伝えていかないと「道才かるたとはこういう一から六の数札が入っているものが正式なセットなのだ」と誤解する人が現れないとも限りませんので、私が松井さんに代わって、この機会に皆さんにお伝えする次第です。
 松井天狗堂の道才かるたは、よく知りませんがもしかすると、東京の奥野カルタ店でも売られていたことがあるかもしれません。しかしもしそうだったとしても、店員が購入者に「このセットに入っている一から六の数札は本当は道才かるたと関係ないものでして……」などと説明していたとは思えません。私の場合松井さんから直接購入したからこそこのお話を伺えたわけで、今から思うと、道才かるたの件に限らず、貴重な体験をしたのだなと改めて実感します。
 「道才かるたの件に限らず」と言うと、例えば、道才かるたのセットに手本引きの札が入れられていたということはつまり、松井天狗堂は手本引きの札も製造・販売していたということです。のみならず松井さんは「その道の本業の方々」のために賭場まで札を届けたこともあったそうで、なかなか「興味深い」お話を伺いました。
(手本引きについては別の店でも興味深い話を耳にしたことがあって、そうした経験を通じて私は「手本引きってマジで『そういう』遊びなんっすね!」ということを悟りました。阿佐田哲也の『ドサ健ばくち地獄』に描かれているような世界が(今はどうなのか知りませんが少なくとも昔は)本当にあったんですね)

 ちなみに松井天狗堂はその後どうなったかと言いますと、松井さんは高齢のため2009年にカルタの製作から引退されました。販売の方はしばらく続けられましたが、それでも翌2010年3月には完全に閉店されました。そして松井さんご自身も先述のとおり2016年12月5日に逝去されました。
 私の極上のウンスンカルタは、買ったらそのまましまい込んでその後一度も使うことなく、今や完全に棚の肥やしと化しております。だって金箔が使われてるんですよ、粗末に扱うわけにいかなくて遊びづらいじゃないですか。でも松井さんはカルタがボロボロになるまで使い込まれることを望んでおられた。そう仰ったときの声も表情も私は記憶しています。いつかはこのウンスンカルタで遊ばなくちゃいけない、それが松井さんへの供養にもなる、と、今はそんなことをぼんやりと考えています。

黒宮公彦