お詫びと訂正

(この文章はTrick-taking games Advent Calendar 2021の4日目の記事として書かれたものです)

 今年もくぼたやさんにお招きいただきましてこのアドベントカレンダーにいくつか記事を書かせていただくこととなりました。どうぞよろしくお願い致します。
 一昨年のアドベントカレンダーに「ジャックのことなど」という記事を投稿しましたが、そこで「ウィドウピッチ」というゲームを紹介しました。よく考えてみるとそこで紹介したルールに一点、私が手を加えたことがありました。それについて黙っているのはまずいと思うので遅ればせながらお詫びしつつ、オリジナルのルールと何が違っていたのかお話ししたいと思います。

 私が一昨年紹介したウィドウピッチのルールには第1山札と第2山札があるわけですが、オリジナルルールではその区別はありません。より正確に言うと、私が一昨年紹介したルールではディーラーはノンディーラー、ディーラー、第1山札に7枚ずつカードを配ることになっていましたが、オリジナルルールではノンディーラーとディーラーに7枚ずつカードを配り、残りはすべて山札となります。
 その後ビッダーは山札の一番上の7枚を取って手札に加え、不要な7枚を捨てます。そして今度はビッダーの相手プレーヤーが手札から不要なカードを好きなだけ捨てて、同じ枚数のカードを山札の上から引きます。
 以上が本来のルールです。

 このルールに従いますとビッダーは山札から7枚まとめて引くことになるので、同じスートのカードが固まっていることが時々あるんですね。そこで私はノンディーラー、ディーラー、第1山札に1枚ずつ、それぞれが7枚ずつになるまで配る方が合理的だと考えて、私自身がウィドウピッチをするときにはいつもこちらの配り方を採用しています。このやり方だと第1山札が確実に7枚になるので、ビッダーが山札から1枚余分に引いてしまうといったミスも起こりません。
 ただあくまでもオリジナルルールは上に述べたとおりです。あるいはまた、ビッダーの相手プレーヤーはいずれにせよ山札からまとめて引くことになるので、ビッダーも同じにした方がいいのではないかという考え方もあるだろうと思います。どちらを採用するかは皆さんの判断にお任せします。もちろんオリジナルルールに従うべきだと考える人もいることでしょう。

 正直なところ、ほとんどの人にとっては「どっちでもいいじゃないかそんなこと」と感じられるんじゃないかと思います。それでも私としては「オリジナルルールは正しく伝えておかないと」という気持ちがありましてですね。ちょっと長くなってしまいますが、以下これについてご説明いたします。

 念のために言いますが、私は「伝統ゲームは伝統的なルールに則ってプレイされなければならない」とはまったく、全然、一切思いません。プレイする人が好きなようにルールを変更して遊べばいいと思います。ただし! ルールに変更を加えた時点でそれは伝統ゲームでなくなるのであって、独自のルールを加えて遊んだにも関わらず「伝統ゲームを遊んだ」と見なすのは慎むべきだと考えます。
 それは要するに、米が外側、ノリは内側、アボカドを巻いて、それを「カリフォルニア・ロール」と称して食す分には、そしてそれを食べている人が美味しいと思って食べている分には、誰も何も文句を言う筋合いはないはずだ、ということです。ただし「これが日本の伝統的な寿司なんだ」と言ったらそれは事実に反するし、ましてや「オレはこれを食うといつも目の前に富士山と桜の光景がパーッと広がるんだよ」とウットリしながらカリフォルニア・ロールを食べている外国人がもしいたとしたら、アナタ何か勘違いしてませんかと言わざるを得ない、ということでもあります。
 繰り返しますが、卓を囲んでいるプレーヤー全員が納得している限り、どんなルール変更を加えて遊ぼうとそれはその人の自由だと思いますし、他人がとやかく口出しすることではありません。ただしどんなにささいな変更であっても変更を加えたからにはそのゲームを「伝統ゲーム」の観点から論じることは許されることではないと私は考えます。変更を加えたからにはそのゲームは「面白いかどうか」の観点からのみ論じられなければなりません。
(いや、伝統ゲームだって「面白いかどうか」以外の観点から論じるのは不毛なことだと思いますがね……。「18世紀ドイツのゲームです」って、単なる話のネタ以上のものではないと思うんですが、「18世紀ドイツ」とか言うと変にありがたがる人がたまにいるようです。18世紀だとエライの? ドイツだとエライの? 何なんだ、あの手の言説にまとわりつく「権威主義」は? 第一18世紀に「ドイツ」なんて国ねえだろ)

 ついでに言うとこれは現代のゲームにも当てはまることだと私は考えます。たとえ現代のボードゲームであっても、卓を囲んでいるプレーヤー全員が納得している限り、どんなルール変更を加えて遊ぼうとそれはその人の自由だと思いますし、他人がとやかく口出しすることではありません。
 「いやいやいや、この箱にデザイナーの名前が書いてあるでしょ? デザイナーの意図したルールに従ってプレイしなきゃこのゲームを遊んだことにならないよ。むしろデザイナーに対する冒涜だよ」
 ……うーむ、ゲームデザイナーは冒涜しても別に構わないのでは? ゲームデザイナーで冒涜してならないのはパーレットとヴォルフガング・クラマーだけですよ。(ええっ?)
 まあとにかく。ここでも伝統ゲームと同じ問題が生じていることが見て取れるでしょう。「デザイナーの作ったゲームに独自のルールを加えて遊ぶことは許されるか」。私はアリだと思います。ただし「変更を加えた独自ルールが面白いかどうか」の観点のみから論じるべきで「デザイナーの作ったゲーム」の観点から論じてはならない、という条件付きで、です。そりゃそうでしょう。
 「こないだカタンってのにオレの独自ルール加えてやってみたんだけど、ありゃ面白くないわ。カタンってクソゲーだな」
 いやいや、クソゲーなのはカタンじゃなくてアナタの付け加えたルールですから、ってのが普通の反応でしょう。こんな理由でカタンが批判されたらトイバーだってたまったもんじゃありません。ってなわけで独自のルールを加えたら「デザイナーの作ったゲーム」の観点から論じてはいけません。そうでなきゃ本当にデザイナーに対する冒涜になってしまうでしょう。
 これとまったく同様に「伝統ゲームに独自のルールを加えて遊ぶことは許されるか」についても、すでに述べたように私はアリだと思います。ただし「面白いかどうか」の観点から論じるべきで「伝統ゲーム」の観点から論じてはならない、という条件付きで、だというのが私の主張です。独自のルールを加えた時点で伝統もヘチマもなく、21世紀のゲーム、「あなたが改変したゲーム」です。

 デザイナーの作ったゲームに独自の改変を加える場合、もう一つ守られるべきことがあります。それは「あくまでも個人的にやるべきだ」ということです。自分の作った独自ルールを「これが正しいルール」として世に広めるというのはやってはならないことでしょう。もちろん自分の作ったルールの方がオリジナルルールよりも面白いなんてことも時にはあることでしょう。その場合にも「オリジナルルール」と「私の考案した別のルール」との両方を示すべきですね。自分の作ったルールをあくまでもヴァリアントとして公表することは構わないでしょうが「正しいルール」として広めようとするのはマズイでしょう。なぜなら
(1) デザイナーが創作したルールは別にあって、そちらがオリジナルルール、すなわち正しいルールだから。
(2) デザイナーのオリジナルルールとあなたの独自ルール、どちらが面白いかは世のゲーマーが決めることであってあなたが決めることではないから。
 というわけで自分の考案したヴァリアントを発表したい場合には、オリジナルルールを示した上であくまでもヴァリアントとして発表すべきだと私は考えます。(当たり前の話ですが)
 これは現代のボードゲームではあまり問題になりません。なぜならボードゲームにはルールブックが付属するので、オリジナルルールを確認することができるからです。ところが伝統ゲーム(というかパブリックドメインのゲームというか)ではなかなかそうはいかないから難しい。きちんとしたルールが書かれたルールブックが付属しないことが多いですし、下手をすると世界中の文献を漁っても正確なルールは記述されていないなんてこともよくある話です。だからこそ伝統ゲームはオリジナルルールの紹介もヴァリアントの発表も慎重に行わないといけないということになります。(もちろんボードゲームにも、ルール翻訳を慎重に行わないといけないという制約がありますが)

 要するに私が言いたいのは、第一に、市販のボードゲームのルールを勝手に変更した上でそれを正しいルールとして世に広めるのが許されないことであるなら、伝統ゲームであっても、たとえそれがどんなに些細なルール変更であろうと許されることではないよね、ということです。そして第二に、自分の考案したヴァリアントがオリジナルよりどんなに面白かろうと、あるいはどんなに合理的だろうと、ヴァリアントとオリジナル、どちらが優れているかの判断はヴァリアントの考案者のすることではなく、世のゲーマーの判断に委ねるべきことよね、ということです。そして世のゲーマーの判断に委ねるためにはオリジナルとヴァリアントの両方を公表しないとダメですよねってことです。
 以上のようなわけでして、一昨年のウィドウピッチは私の作ったヴァリアント。オリジナルルールは上で述べたものです。お詫びして訂正させて頂きます。プレイの際にはどうぞお好きな方をお選びください。私自身は自分のルールの方が合理的だと考えていますが、何度も言うようにオリジナルルールと私のルール、どちらがいいかは世のゲーマーが決めることであって私が決めることではないのですから。
(いや、まあ、何と言うか、個人の好みに過ぎないものを「これが正しい、これこそが決定版!」として世に広めるというか「世に押しつける」のは、するのもされるのも好きじゃないんです、私は)

黒宮公彦