私の考える「トリックテイキングゲーム」とは

(この文章はTrick-taking games Advent Calendar 2018の9日目の記事として書かれたものです)

 今回このアドベントカレンダーに寄稿するに当たって、くぼたやさんから「黒宮流トリックテイキングゲームの定義(どこまでのルールをトリテの範疇とするか)」というテーマのリクエストを頂戴いたしました。うーん、このテーマは間違いなく物議を醸すというか、もっとはっきり言うと世間様にケンカを売ることになる予感が猛烈にするのですが、まあでもリクエストを頂いたことだし、私自身思うところはもちろんあるし、じゃあ一つ書いてみようかと思いまして、今日はそのお話です。念のためあらかじめお断りしておきますが、これはあくまでも私の個人的な意見です。このテーマについては2015年のアドベントカレンダーの中にゴクラクテンさんや草場純さんの記事がありますし、昨年のアドベントカレンダーにもカズマさんの記事がありますので、これらの記事も併せてお読みになるといろんな人のいろんな意見があることがお分かりいただけることと思います。
 以下長くなってしまいますが、しかもあまり建設的な話にはなりませんが、よろしければお付き合い下さい。

 私は伝統的なトリテ、つまりトランプやタロットでプレイするトリテに特に興味があります。そうしたトリテは似たり寄ったりなところがあり、(1) スートは4つ(トランプ)か5つ(タロット)で、各スートのランク数は同じか切り札スートだけ長い、(2) 全員同じ枚数の手札が配られ、フォローできなくてもパスできない、(3) 台札は1枚(複数枚リードなし)、(4) 1人ずつ順番に場に1枚カードを出し、全員1枚ずつ出した時点でトリックの勝者を決める、(5) マストフォロー、(6) カードにはあらかじめ決められた強弱があり、切り札が出されていれば最も強い切り札、出されていなければ台札スートの最も強いカードがトリックに勝つ、(7) トリックの勝者は場に出されたカードをすべて獲得し次のトリックで台札を出す、(8) 山札から手札の補充をすることはあっても手札が配られた時点での枚数より増えることはなく、獲得したカードも手札には加えない(一度場に出されたカードが再びプレイされることはない)、といったルールのゲームが圧倒的に多いです。たくさんあったからこそヨーロッパで「トリックテイキング」という概念が自然発生したのでしょう。というわけで私も上記 (1)〜(8) を満たすゲームがトリテの基本、典型的なトリテだと考えます。それは「トリテかくあるべし」ということではなく、伝統的なトリテをたくさん集めて多数決を採ったら事実としてこれらのルールになるという意味であり、別の言い方をすると「歴史的に見るとこういうルールのものをトリテの基本と見なすのが最も自然だ」ということです。もっともヨーロッパを中心としてこれら8つの特徴を満たす多数のトリテが生み出され、長い間多くの人々によって遊び継がれてきたからにはきっと何か理由があるのでしょう。これについては後で考察します。
 同時にまた私は「トリテの歴史的変遷」なんてものに興味があり、これとも関連するのですが、生物を分類するようにトランプゲームを分類できないものかと常々考えております。そういう立場からしますと「トリテ」の概念を拡げて何でもかんでもトリテに含めてしまうのは分類の意味がなくなってしまうように感じます。ですから例えば「キュウリはトリテに含めるべきか」という問題に対して私はトリテはやはりスートのあるカードを使うものに限定した方がいいと考えます。要するに私にとって「トリテ」は単なるカードゲームの1ジャンルでしかなく、カードゲームの分類のために便利な用語という以上のものではないので、「キュウリをトリテに含めても構わないけれど、その場合さらなるトリテの下位区分が必要になるので、結局何も変わらない」と考えます。

 まあこれはあくまでも伝統的なトランプゲームの分類と系統発生について考察している者の意見であり、ただの変態的な意見ですから、もう少し一般人的見地から眺めてみましょう。一般的なゲーマーってトリテかトリテでないかってそんなにこだわってるものなんでしょうか?(ひょっとしてオレ今このアドベントカレンダーの存在意義を全否定した?えーと……)あるカードゲームがどんなゲームか人に説明するとき、「キュウリみたいなゲームです」と言って通じるのならそれに越したことはないんじゃないでしょうか。少なくとも「トリテです」よりははるかに正確にどんなゲームか伝えることができます。これは通常のトリテでも同じで、「トリテです」で済ますよりは「ハーツみたいなゲームです」「オーヘル!にちょっと似てます」で相手に通じるのであればそちらの方がいいでしょう。結局「トリックテイキング」なんてのは「ワーカープレースメント」やら「エリアマジョリティ」やらと同じで、基本的にはゲームを分類したい人にとってのみ必要な概念という気がします。現に皆さん6ニムトやアプルクセンを「カードゲームのどのジャンルに分類されるか」なんて気にせずに楽しんでいるんでしょ?
 トリテに限らずゲームとは今までにない新しいものを作り出そうとする努力によって生まれて来るものです。したがってゲームのジャンルなんてものはどう定義したところでその定義に収まりきらない新たなゲームが次々に生み出されていきますので、定義として不完全ということに早晩なってしまうものです。となると我々が求めるべきはトリテの「明確にして完全な定義」よりはむしろ「中核的・最も典型的な特徴」なのではないでしょうか。そしてそこから外れる個々のゲームについては典型的なトリテと何が合致し何が違っているかを認識した上で、トリテに含まれるかどうかは個人が判断すればいいのではないかと私は考えます。
 ではトリテの「中核的・最も典型的な特徴」とは何かと言えば上に述べた8つの特徴だというのが私の考えです。すでに述べたようにこれには何と言っても歴史的な裏付けがあります。これらが多くのトリテに共通する特徴だということは言い換えるとこうした特徴を備えたトリテが伝統的に多数生み出されてきたということですから、これら8つの特徴が「トリテの本質」であると私は捉えています。

 「おい、ちょっと待ってくれ。(5) にマストフォローが入ってるじゃないか。お前はメイフォローのゲームをトリテと認めないのか?!」という声がそろそろ聞こえてきそうですね。しかし私がここで言っているのは認める認めないの問題ではなく、事実として伝統的なトリテの中ではメイフォローはかなり特殊な存在だということです。伝統ゲームにおいてはメイフォローのトリテは、手札を配り終えた後に山札が残り、1トリック終えるごとに山札から手札を補充するタイプのものが基本なんじゃないかと思います。(なおブリスコラ・キアマータはこれに準じると見なします。またここではヨーロッパの伝統的トリテについて考えており、中国のゲームについては考慮に入れておりません)
 加えて、実を言うと私自身も「トリテの本質」をマストフォロー、すなわち「フォローの義務」にあると考えます(ちなみに「マストフォロー」は和製英語です)。これはより詳しく言うと「台札スートをフォローする義務」のことですから、カードのスートが複数あることを前提としています。スートが1つしかない(ということはスートがないということですが)ゲームを私がトリテと見なさない理由の一つがここにあります。またメイフォローのトリテは、「伝統的なトリテ」という視点から見て特異であるのみならず、プレーヤー視点から見てもマストフォローのトリテとは別のものと私は位置づけています。より正確に言うとマストフォローとメイフォローとでは楽しむポイントが違うように感じます。
 私がマストフォローをそこまで重視する、言い換えると「マストフォローこそがトリックテイキングゲームの本質である」と見なす理由は何か。それは「マストフォローはカウンティングと表裏一体の関係にある」と考えるからです。
 カウンティングと言うと「難しい」「覚えられない」「カウンティングなんかしなくてもトリテは楽しめる」なんて声が上がったりしますが、そしてもちろんそういう考え方があっていいと思いますし否定する気はまったくありませんが、ただ「カウンティングは難しい」という話に行く前に一つ確認させて下さい。カウンティングって「何を」数えることなのでしょうか。もしあなたの答えが「そりゃもちろん場に出されたカードを数えるんですよ」ということだとしたら、私とは数えているものが少し違うようです。出されたカードを数えるのも大事ですが、それよりも何よりも大事なのは「どのスートで何巡したかを数えること」だと私は考えます。
 ハーツ(ブラックレディ)を例に取りましょう。使用するのは52枚のカードで、各スートは13枚ずつです。4人でハーツをすると各自に13枚ずつ配られます。ゲームがある程度進行した状況を考えてみましょう。クラブはすでに2巡していて、いずれも全員フォローしていたとします。するとわずかこれだけの情報から、クラブはすでに8枚プレイされており、残りの5枚が各自の手札に散らばっていることが分かります。仮に自分の手札の中にクラブが2枚あったとしたら残りは3枚、それを他のプレーヤー3人が1枚ずつ持っている可能性は低いですから、ここでクラブをリードすればそろそろハートが出てきそうですし、もしかするとブラックレディが出るかもしれません。そんなことを考えながら私はトリテをプレイしています。
 ですからカウンティングはそれほど難しいものではありません。少なくともプレイされたすべてのカードを覚える必要は全然ないのです。それよりも (1) どのスートで何巡したか、(2) 全員フォローしたか、(3) フォローしなかった人がいたらそれは誰で、何を捨てたか、を覚えておくことが大事で、あとは各スートのAKQあたりが出されたかどうかを覚えておけばおおむね大丈夫です(ただしハーツのようなゲームではもっと低いランクのカードも覚えるのが望ましい)。またこうしたことを覚えようと努力することが大切で、実際にすべて完璧に覚えておくというのはどだい無理な話です。ブリッジの熟練者になると完璧に覚えられるそうですが、いかんせん私はそんなレベルにはほど遠いので「あれ?勘違いしてた。シマッタ」ってのを毎ディール繰り返しております。それでもなるべく覚えようと努力しているうちに、どのスートで何巡したか・どのカードがプレイされたか・誰がどのスートをフォローしなかったかといったことがある程度「感覚」として分かる(もしくは自然と頭に入る)ようにだんだんなっていきます。(あくまでも「感覚」なので毎ディール勘違いを繰り返すわけですが)
 マストフォローのルールに違反することを「リボーク」といいますが、トリテ慣れした人たちと卓を囲むとリボークがあればすぐに指摘されます。しかもどこか怒った様子で指摘されることが多いです。トリテ慣れした人たちはリボークをするとどうして怒るのでしょうか。いやそれ以前に、トリテ慣れした人たちはどうしてすぐにリボークに気づくのでしょうか。それは彼らがカウンティングをしているからです。「クラブリードであの人はハートを出した。ということはあの人の手札にクラブはない。ということはあとの2人の手の内にある。そしてクラブの残り枚数は……」ということを常に考えているからこそ、リボークに瞬時に気づきます。というわけで彼らがリボークに腹を立てるのは「ルール違反をしちゃダメじゃないか」ということではないのです。あれは「オレのカウンティングを台無しにしやがって!予定が狂うじゃないか!」という怒りなのです。
 ただし、以上はあくまでもマストフォローを前提として成り立っている話です。誰かがダイヤをリードして他の3人全員がフォローしたならば、どのランクのダイヤが場に出されたかは覚えていなくともとりあえずダイヤがすでに4枚出されたことは分かります。あるいはまた、自分の手札以外にもダイヤがまだ残っていることが確実ならば、ダイヤの2をリードすればそのトリックは間違いなく他のプレーヤーが取ります─ダイヤを持っていたら必ず出さなきゃいけないんですから。このようにマストフォローのルールがあるからこそカウンティングはスムーズにできますし、マストフォローとカウンティングがあってこそ先に何が起こるか、他のプレーヤーの手の内に何があるかをある程度予測することができます。この「予測・推理」を楽しむのがトリテの本質だと私は考えます。同時にまた、マストフォローを含む8つの特徴を備えたトリテが伝統的に多数作られてきた理由も基本的にはここにあるのではないかと考えています。
 要するにマストフォローのトリテは(極端な言い方をすると)カードを覚えなくて済むのです。メイフォローではこうはいきません。マストフォローの縛りがないため手札から何を出そうと自由ですから場に何が出されるかさっぱり予想がつきません。つまりカウンティングがあまり意味を持ちません。同時にまたカウンティングが極めて困難にもなります。結果としてメイフォローのゲームは「予測・推理」よりも「今このトリックで手札から何を出すのがベストか」という判断を楽しむのがメインとなります(もしくは推理するにしてもマストフォローとは推理のしかたが違うように思います)。上に述べた「マストフォローとメイフォローとでは楽しむポイントが違う」というのはこういうことです。
 なおマストフォローであっても例えばボトルインプのようにカウンティングしづらいトリテもあります。製品化されている新作のトリテにはこの手のものがときどきありますね。

 ここで慌てて付け加えておかなければならないことがあります。「マストフォローこそがトリテの本質である」と私は考えますが「だからメイフォローやらキュウリやらはダメなんだ」なんてことを言うつもりは全然ない、ということです。私がこんなことを言うとメイフォローやキュウリが否定されたかのように受け取る人が一部にいるような気がします。なんかこれって「鳥って空飛ぶもんだよね」と言ったら「じゃあお前はペンギンの存在を否定するのか」と言い返されるようなもので、私としては「鳥の典型的特徴とは何か」「ペンギンをどこに分類するか」と「ペンギンの存在を認めるか」とは全然別の話だと思うのですが。私の基本的な立ち位置は「メイフォローはトリテに含める。キュウリは含めない」ですが、実のところどうだっていいのです。メイフォローのトリテはマストフォローとは違った面白さがあるからこそいいのであって、両者は当然プレイ感が異なります。そうした「異なっている2つのもの」のそれぞれの特徴について考察するというのなら分かるのですが、異なっている2つのものを1つのグループにまとめるのがいいのか分けた方がいいのかと問われても「どちらでもいい」としか答えようがないのではないでしょうか。
 ボードゲームでは、例えばアサラが出たとき「これはワーカープレースメントと呼んでいいのか?」といった議論は特になく、世のゲーマーはアサラをアサラとして受け入れていたように記憶しています。おかげで「ワカプレ警察」だの「変態セットコレクション」だのといった概念が生まれずに済んでいるわけですが(もしかして私が知らないだけ?)、それに比べるとどうしてトリテに限って「トリテ警察」「変態トリテ」といった概念が存在するのでしょう?「トリテ」の定義を混乱させた元凶はおそらくBGGが大富豪やハゲタカのえじきをトリテに分類したことなんでしょうけれど、それにしても不思議な現象です。
 もしかして昨今はトリテを「高級で立派でエライもの」と見なす風潮でもあるのでしょうか。トリテのようなトリテでないような、オリジナリティ溢れるゲームがなぜか「トリテ」として発表されることがときどきあって、その度に「変態トリテだ」「トリテと呼べない」「いやトリテとして認めろ」と物議を醸しています。私は「不毛な議論だなあ、トリテでなくったって、ゲームとして評価すればいいだけでは?」と感じています。別に「トリテだから素晴らしい」わけでも「トリテでないからダメ」なわけでもないでしょう?どうしてトリテを名乗りたがるのでしょう?伝統的なトリテの枠組みに収まるゲームならいざ知らず、それに収まらないオリジナリティ溢れるゲームについては「従来のトリテとは違うんだ、トリテじゃないんだ」という点こそ強調され評価されるべきだと思うのですが。学生時代にナポレオンあたりからトリテの世界に入った旧世代の人間で「たかがトリテ、されどトリテ」という認識を抱いている私には「トリテ」に妙な権威がまとわりついているように感じられる昨今の風潮は何だかコワイような気さえするのです。
 例えば上で触れたボトルインプにしても、ランクとスートの対応関係がバラバラなのでマストフォローだけれどもカウンティングがしづらいです。なのでボトルインプは私にとって「正統派のトリテ」ではありませんが、それでも面白いゲームであるのは事実で「こんなトリテもアリだ」と思わせてくます。メイフォローのトリテにせよキュウリにせよ、それぞれのゲームにそれぞれの面白さがあります。その面白さは「トリテであるかどうか」とは無関係だと思いませんか。
 他のゲームと同様トリテも人によって向き不向きが当然あるでしょう。トリテが万人向きだとは私はまったく思いません。実際私が面白いと思わないトリテもいっぱいあります。ゲームは仕事じゃないんですから「トリテ」なんてわけの分からない概念に縛られずに自分が面白いと感じたゲームを好きなようにプレイすればいいんじゃないですかね。だってトリテは所詮「カードゲームの分類のために便利な用語」でしかないんですから。

 この記事ではあくまでも伝統的なカードゲームを念頭に置いて話を進めてきましたが、現代の製品化された商業ゲームは「いかに他のゲームとの差別化を図るか」が勝負ですから1つ1つルールがまるで違います。そうしたものを「トリテ」という概念で一くくりにするのは難しいでしょうし、あまり意味のあることとも思えません。「トリテ」はあくまでも伝統的なカードゲームを分類するために生まれた古くからある概念であって、どのゲームも似たり寄ったりだった時代のものです。それを現代のカードゲームにまで無理やり当てはめようとする態度は古くさく、多様性を尊重する現代社会においては相応しくないなんて言ったら言い過ぎでしょうか。現代のカードゲームを(別に分類する必要はないと思うのですが)どうしても分類する必要があるというのであれば、そのための「トリテ」に代わる新しい(複数の)概念が今後作り出されるべきだと私は考えます。

 すっかり長くなってしまったので最後に私の意見をまとめておきます。
1.「このゲームはトリテに分類されるのか」なんて分からなくてもゲームは楽しめる。「トリテとは何か」なんてことはどうしてもゲームを分類したい人だけが考えればいい。
2.分類について考える場合「トリテとは何か」という問題は実は大して意味がない。本質的なのはむしろトリテの下位分類であって、「トリテとは何か」だけを考えても物事は何も解決しない。なので「トリテとは何か」という問題に答えたければ、まずは伝統的なトランプ・タロットのトリテを50ほど集めて下位分類する作業をして、それから考えた方がいい。
3.現代の製品化された「トリテに似たところのある」商業ゲーム群を「トリテ」という枠に収めるのは無理があるので、これらを分類するのであれば新しい概念と名称とが必要である。
4.ゲームを離れた一般論として、「分類」なんてものは「そう分類すると何が便利なのか」という視点を忘れて原理原則を振り回すとロクなことにならない。
5.最後にもう一度繰り返すが、以上は私の個人的な意見である。

黒宮公彦